昭和15年澁谷長三郎が他界します。その後2代目澁谷司が事業を引き継ぐことになりますが、折しも日本は戦争への道を歩み始めた時であり、翌年には太平洋戦争が開戦となります。
澁谷司も当時軍に在籍しており、満州で終戦を迎えることになります。家業は弟である澁谷四郎が引き継ぎ細々と続けておりました。終戦後澁谷司はシベリア抑留を余儀なくされましたが、苦境を乗り越え昭和23年5月生きて故郷に帰ることができました。復員後すぐに渋谷組を株式会社に組織変更し、渋谷建設株式会社として中山町長崎に資本金20万円で設立されました。

左の写真は、渋谷建設株式会社設立から2年後、渋江橋の竣工記念の写真です。この写真は、澁谷司が社員に手渡す予定だったのでしょう。写真の裏に万年筆で走り書きがありました。
「諸君の努力に感謝す。
建設者は地球の芸術家たることを感銘すべし。
昭和25年11月11日」

時代は復興から高度成長へ移り変わっていきました。左の写真は昭和28年長崎漆山線の灰塚橋の架け替え工事のもようです。構造も戦後の交通・運輸の拡大に耐えられるコンクリート橋になりました。後ろに見え隠れしているのが初代澁谷長三郎が手がけた木橋です。
灰塚橋は平成になって現在の橋に架け替えられこの工事も当社が受注しました。灰塚橋は初代、2代目、3代目と3代に渡って架け替えられました。

この頃の建設業は時代の要請に応えるかたちで急激に成長し、時代の先端をいく基幹産業として発展した時期でもありました。各社とも積極的に機械化を導入し工事品質の向上と合理化を推進していきました。渋谷建設も例外ではなくドラグラインやブルドーザーをはじめとする大型建設機械を次々と導入し、県内有数の機械力を有した企業として受注を重ねていきました。一方でこれらの設備投資は資金繰りを圧迫しやがて経営状態を窮地に追い込むことになります。

全社員の努力と多くの方々の支えにより経営の危機を脱した後は、有する機械力と技術力を発揮して、公共土木工事を中心に県下の主要工事に携わっていきます。高度成長はモータリゼーションを巻き起こし、昭和35年から昭和38年にかけて建設された山形県初の観光有料道路である蔵王ラインを受注。完成した蔵王ラインはふるさとの観光振興に大きな役割を果たしました。
同時期には、蔵王ゴルフ場のアウトコース造成工事を受注。昭和39年東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年です。テレビが普及するなど人々のくらしは豊かに変わっていきました。
この後山形空港をはじめ工業団地、住宅団地などの造成工事、山形県総合運動公園や山形市スポーツセンターなどのスポーツ施設の駐車場や外構工事、ダム、トンネル、道路新設、舗装、河川工事など多岐にわたり、山形県の主要プロジェクトに携わっていきます。安全で安心できるくらしに欠くことのできない社会資本整備のための一助となれるよう、当社は日々技術の研鑽を重ねています。