渋谷建設の歩み

渋谷建設の歩み

平成20年、創業100周年を機に渋谷建設の創業から現在までの歴史が編纂されました。弊社についてより深くご理解いただければ幸いと思い、ここに公開させていただきます。

明治から大正 澁谷長三郎と渋谷組

左の写真は大正9年頃、中山町天性寺前の新堀川にかかる当時では珍しいコンクリート橋の工事です。
平成12年この橋は約80年の年月を経て架け替えられることになり、その工事を当社が受注しました。
解体に着手しようとしたところ、コンクリートに写真のような銘が掘り込まれていることがわかり型にとったものが右の写真です。当時の橋の役割と事業の大きさ、そして初代澁谷長三郎の心意気が偲ばれます。

明治6年から、村山地方西部地域の米の増産を目的に、最上川から農業用水を引くための水路建設が行われました。西村山郡上流右岸で取水し一部は長さ300mにも及ぶ導水トンネルを掘って水路を引き、大江町、寒河江市、中山町に及び一帯の水田を潤すという大事業でした。渋谷組は堰の取入口と導水トンネルの一部を請け負いました。左の写真がその時のもので大江町深沢地内「最上堰取入口工事」、大正15年頃の写真です。

山形県民から母なる川として親しまれている最上川。しかし、流域の人々をたびたび水害で苦しめてきた川でもありました。
左の写真は昭和3年頃、中山町源内淵における水の流れをゆるやかにするための河川工事の様子です。川の中に杭を立てて流速を緩和するとともに、舟で寒河江市柴橋付近まで遡上し石を積み込んで戻り沈石するというものでした。吃水線すれすれに石を積み込むため運搬は危険な作業であったようです。
写真手前のトロッコは運搬用に使われていました。

大戦勃発と戦後経済 激変する環境への挑戦

昭和15年澁谷長三郎が他界します。その後2代目澁谷司が事業を引き継ぐことになりますが、折しも日本は戦争への道を歩み始めた時であり、翌年には太平洋戦争が開戦となります。
 
澁谷司も当時軍に在籍しており、満州で終戦を迎えることになります。家業は弟である澁谷四郎が引き継ぎ細々と続けておりました。終戦後澁谷司はシベリア抑留を余儀なくされましたが、苦境を乗り越え昭和23年5月生きて故郷に帰ることができました。復員後すぐに渋谷組を株式会社に組織変更し、渋谷建設株式会社として中山町長崎に資本金20万円で設立されました。
 
左の写真は、渋谷建設株式会社設立から2年後、渋江橋の竣工記念の写真です。この写真は、澁谷司が社員に手渡す予定だったのでしょう。写真の裏に万年筆で走り書きがありました。
 
「諸君の努力に感謝す。
建設者は地球の芸術家たることを感銘すべし。
昭和25年11月11日」


時代は復興から高度成長へ移り変わっていきました。左の写真は昭和28年長崎漆山線の灰塚橋の架け替え工事のもようです。構造も戦後の交通・運輸の拡大に耐えられるコンクリート橋になりました。後ろに見え隠れしているのが初代澁谷長三郎が手がけた木橋です。
灰塚橋は平成になって現在の橋に架け替えられこの工事も当社が受注しました。灰塚橋は初代、2代目、3代目と3代に渡って架け替えられました。

この頃の建設業は時代の要請に応えるかたちで急激に成長し、時代の先端をいく基幹産業として発展した時期でもありました。各社とも積極的に機械化を導入し工事品質の向上と合理化を推進していきました。渋谷建設も例外ではなくドラグラインやブルドーザーをはじめとする大型建設機械を次々と導入し、県内有数の機械力を有した企業として受注を重ねていきました。一方でこれらの設備投資は資金繰りを圧迫しやがて経営状態を窮地に追い込むことになります。

全社員の努力と多くの方々の支えにより経営の危機を脱した後は、有する機械力と技術力を発揮して、公共土木工事を中心に県下の主要工事に携わっていきます。高度成長はモータリゼーションを巻き起こし、昭和35年から昭和38年にかけて建設された山形県初の観光有料道路である蔵王ラインを受注。完成した蔵王ラインはふるさとの観光振興に大きな役割を果たしました。
同時期には、蔵王ゴルフ場のアウトコース造成工事を受注。昭和39年東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年です。テレビが普及するなど人々のくらしは豊かに変わっていきました。

この後山形空港をはじめ工業団地、住宅団地などの造成工事、山形県総合運動公園や山形市スポーツセンターなどのスポーツ施設の駐車場や外構工事、ダム、トンネル、道路新設、舗装、河川工事など多岐にわたり、山形県の主要プロジェクトに携わっていきます。安全で安心できるくらしに欠くことのできない社会資本整備のための一助となれるよう、当社は日々技術の研鑽を重ねています。

山形県の建設業界の代表として

現会長の澁谷忠昌は、澁谷司の長男として昭和17年中山町に生まれ、渋谷建設株式会社が最も苦しい時代であった昭和40年4月に入社し、昭和60年7月に代表取締役社長に就任しました。2代目渋谷司の意思を引き継ぎながらも、経営の合理化と人材育成に傾注し現在の渋谷建設の基盤を形作ってまいりました。
 
「実際に利用されるエンドユーザーにやさしい工事を」「利便性の向上と郷土産業の発展は重要であるが、同時に恵まれた豊かな自然との調和が大切」など、斬新なビジョンと実行力を持ち合わせたアイデアマンでもあり「我々の仕事は、県民の生命と財産を守り、安全で安心できるくらしを支える大切で素晴らしい仕事」と言い切ります。

平成21年5月第8代山形県建設業協会会長に就任しました。渋谷建設のみならず山形県の建設業界の代表として、業界と郷土の発展のために幅広く精力的に活動を行っております。

社屋の変遷

 創業当時は中山町長崎の自宅を事務所
 兼用としていたようです。上の写真は
 本社を山形市城西町に移した昭和34年
 の写真です。
 会社設立30周年を記念し
 て改築された本社です。
 平成10年11月に竣工いたしました現在
 の本社です。 創業90年、会社設立50周
 年を記念して建設されたこの本社は万一
 の災害が起きた場合の初動活動に際して
 迅速に対応できるようにと山形県内初の
 免震構造で建設されております。